伊藤忠兵衛記念館&豊会館 滋賀 [日本あちこち]
近江鉄道の豊郷駅です。
豊郷は、江州音頭発祥の地です。江州音頭…というのを関西人ながら聞いたことがない
のですが、YouTubeで聞いてもすぐに覚えられず…。
江州音頭の櫓に、「ようこそ聖地へ」の文字。何でもありですねぇw。
駅の中に書いてあったのは、この4人。藤野喜兵衛、伊藤忠兵衛、薩摩治兵衛、古川鉄
治郎。古川さんは、昨日書いた豊郷小学校を建てた人です。
4人とも皆、近江商人なのですね。
ぶらぶら歩いて行くと、伊藤長兵衛さんの旧宅跡がありました。
長兵衛さんは伊藤忠兵衛さんの兄の娘婿で、丸紅の初代社長です。私財と自宅敷地の大
部分を寄付し、豊郷病院を建設しました。これもヴォーリズの設計です。
現在の豊郷病院。
さらに行くと、伊藤忠と丸紅の創始者、伊藤忠兵衛記念館に出ます。ここは、忠兵衛さ
んの旧宅でもあり、しっかり伊藤忠が管理しています。
忠兵衛さんの息子、二代目忠兵衛は早くから留学し、モダンな生活を取り入れました。
ちょっと離れた「豊会館」。ここは又十屋敷と呼ばれ、藤野喜兵衛の屋敷です。
喜兵衛さんはまさに近江商人のハシリで、幕末に北海道へ渡り「あけぼの缶詰」を創立
した方です。地元の方が、丁寧に説明して下さいます。
国宝彦根屏風の写し。
松前屏風。
井伊直弼などが出入りしたらしいです。井伊の赤備え。
又十屋敷というのは、この帆のマークなのですね。
お庭の真ん中の大きい木は、庭を造る前からあったようで、この裏まで宇曽川の水を引
いて、荷物を北前船で若狭→琵琶湖→豊郷と運んでいました。その時の目印に、この木
を使ったとか。
お庭の前の部屋に掛け軸があって、その裏は抜け道になっているそうです。
井伊直弼が屋敷に来た時、刺客に襲われてここから逃げ、その時の刀傷が残っていまし
た。説明の方も、本当かどうかわからないとの事。
たくさんの展示品が、雑多に並べてあります。
藤野さんが井伊家に任されて行った事業、湖東焼。
井伊直弼が暗殺されると、職人が逃げ去って途絶えてしまいました。
ここでも江州音頭、ラブでした。
豊郷は、江州音頭発祥の地です。江州音頭…というのを関西人ながら聞いたことがない
のですが、YouTubeで聞いてもすぐに覚えられず…。
江州音頭の櫓に、「ようこそ聖地へ」の文字。何でもありですねぇw。
駅の中に書いてあったのは、この4人。藤野喜兵衛、伊藤忠兵衛、薩摩治兵衛、古川鉄
治郎。古川さんは、昨日書いた豊郷小学校を建てた人です。
4人とも皆、近江商人なのですね。
ぶらぶら歩いて行くと、伊藤長兵衛さんの旧宅跡がありました。
長兵衛さんは伊藤忠兵衛さんの兄の娘婿で、丸紅の初代社長です。私財と自宅敷地の大
部分を寄付し、豊郷病院を建設しました。これもヴォーリズの設計です。
現在の豊郷病院。
さらに行くと、伊藤忠と丸紅の創始者、伊藤忠兵衛記念館に出ます。ここは、忠兵衛さ
んの旧宅でもあり、しっかり伊藤忠が管理しています。
忠兵衛さんの息子、二代目忠兵衛は早くから留学し、モダンな生活を取り入れました。
ちょっと離れた「豊会館」。ここは又十屋敷と呼ばれ、藤野喜兵衛の屋敷です。
喜兵衛さんはまさに近江商人のハシリで、幕末に北海道へ渡り「あけぼの缶詰」を創立
した方です。地元の方が、丁寧に説明して下さいます。
国宝彦根屏風の写し。
松前屏風。
井伊直弼などが出入りしたらしいです。井伊の赤備え。
又十屋敷というのは、この帆のマークなのですね。
お庭の真ん中の大きい木は、庭を造る前からあったようで、この裏まで宇曽川の水を引
いて、荷物を北前船で若狭→琵琶湖→豊郷と運んでいました。その時の目印に、この木
を使ったとか。
お庭の前の部屋に掛け軸があって、その裏は抜け道になっているそうです。
井伊直弼が屋敷に来た時、刺客に襲われてここから逃げ、その時の刀傷が残っていまし
た。説明の方も、本当かどうかわからないとの事。
たくさんの展示品が、雑多に並べてあります。
藤野さんが井伊家に任されて行った事業、湖東焼。
井伊直弼が暗殺されると、職人が逃げ去って途絶えてしまいました。
ここでも江州音頭、ラブでした。
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