東平(とうなる) 愛媛 [日本あちこち]
大正5年から別子銅山の本体で、標高750mに位置する場所にあります。
昭和43年の閉山まで、最盛期には10,000人以上の人がここに住んでいました。
よく見えませんが、山の高いところに鉄道もあったそうです。
駐車場から、下を見るとこんな感じ。
荷物を上げ下ろししたインクラインは、220段の大階段になっています。
紫陽花がきれいでした。
貯鉱庫跡。
下りたら、登らなくちゃ。猛暑なので、大変です。
この道は、日陰があって快適でした。
第三社宅跡。
坑道の入口は、本当に涼しいです。
採鉱本部跡。
旧第三変電所。
第三通洞。明治35年貫通。
中をのぞくと、今でも入って行けそうです。
東平歴史資料館の中。水樹奈々さん、ここでも登場。
娯楽場。
小学校。
社宅。生存している方に聞くと、皆仲良く助け合って暮らしていたそうです。
「東洋のマチュピチュ」と呼ぶには明らかに違うのですが、でもこの霧がか
かった様子を見ると、ちょっと雰囲気はあるなぁと思います。
もっと季節がよければ、あちこち歩いて一日ぐらい余裕でかかりそうですが、
とてもじゃないけど暑過ぎました。
昭和43年の閉山まで、最盛期には10,000人以上の人がここに住んでいました。
よく見えませんが、山の高いところに鉄道もあったそうです。
駐車場から、下を見るとこんな感じ。
荷物を上げ下ろししたインクラインは、220段の大階段になっています。
紫陽花がきれいでした。
貯鉱庫跡。
下りたら、登らなくちゃ。猛暑なので、大変です。
この道は、日陰があって快適でした。
第三社宅跡。
坑道の入口は、本当に涼しいです。
採鉱本部跡。
旧第三変電所。
第三通洞。明治35年貫通。
中をのぞくと、今でも入って行けそうです。
東平歴史資料館の中。水樹奈々さん、ここでも登場。
娯楽場。
小学校。
社宅。生存している方に聞くと、皆仲良く助け合って暮らしていたそうです。
「東洋のマチュピチュ」と呼ぶには明らかに違うのですが、でもこの霧がか
かった様子を見ると、ちょっと雰囲気はあるなぁと思います。
もっと季節がよければ、あちこち歩いて一日ぐらい余裕でかかりそうですが、
とてもじゃないけど暑過ぎました。
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